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けん玉名人 砂原宏幸さん|みんなを笑顔にするけん玉は、人と地域をつなぐ最強のツール

砂原宏幸さんがけん玉の楽しさに目覚めたのは、小学校の教員時代。けん玉クラブの顧問を引き受けたことから、砂原さんのけん玉人生が始まります。すっかりけん玉の魅力にとりつかれた砂原さんは、ついには教職を辞めてけん玉の道へ飛び込みます。「いつでも、どこでも、誰でもできる」のがけん玉の最大の魅力だというけん玉名人・砂原さんに、けん玉と地域と子どもの関係、そして今後の活動についてお聞きしました。

きっかけは小学校のけん玉クラブ

けん玉名人として広島はもとより、全国的にも有名な砂原さんですが、そもそも砂原さんとけん玉との出合いは何だったんですか?
砂原:最初の出合いということでいえば、それこそ保育園の頃から小学校、中学校の頃までけん玉はやってたんですよ。そのころは「けん玉」という言葉はなくて「ニッサン」って言っとったんですよね。お兄ちゃん、お姉ちゃんたちがやるのを見よう見まねでやってたよね。でも大人になってからはやってなかったんですね。
なるほど。それがどういうきっかけでけん玉名人と言われるまでに?
砂原:平成元年、廿日市市立阿品台東小学校に転任になったんですが、そこにけん玉クラブがあったんです。赴任して2年目で6年生の担任になったんですが、そのクラスの男の子のほとんどがけん玉クラブに入っとってね。ほいで、私がけん玉クラブの顧問になって、子どもたちと一緒にけん玉をするようになって。やっぱりけん玉は楽しいなあと思ったんですよね。
けん玉の楽しさに目覚めた瞬間ですね。
砂原:その後、平良小学校に転任したんですが、当時、廿日市で唯一けん玉をつくっていた共栄玩具という会社の社長が来校されたのをきっかけに、1年生~6年生まで各クラスに3個ずつけん玉を購入することになったんですね。それで誰か子どもたちにけん玉を指導してくれないかと教頭から話があって、誰もやる人がいないもんだから「私がやりましょう」って。そこで本気でけん玉の特訓を始めたわけです。
小学校教諭時代の砂原さん。
どんな特訓をされたのですか?
砂原:子どもの頃にやっとった「ニッサン」というのは糸なしのけん玉でね、遊び方もどの皿に乗せたら何点というように点取りゲームみたいなもんで、今のけん玉とは全然違っとったんですよ。だから本やDVDを買って一生懸命練習しました。やればやるほど面白くてねえ。ついに、学校にけん玉クラブをつくったんですよ。
へえ~、子どもたちの反応はどうでしたか?
砂原:初めは4年生、5年生が9名くらい集まったかな。子どもたちと「どっちが上手になるか競争だぞ!」ってやってるとみんな面白がってね。夢中になって放課後もやってるもんだから、他のクラブの子たちも集まってきて、6年生もけん玉クラブに入って、そしたら学校中に広まってね。
大人気になったんですね!
砂原:そうなんですよ。それでテレビの取材が来たり、地域のイベントにも呼ばれるようになって。子どもたちといろんなイベントに参加しました。
イベントではどんなことを?
砂原:私と子どもたちが並んで「大皿~!」「小皿~!」とか言いながら一斉にやるわけですよ。そしたら、見ている人もみんな「わあ~!」って喜んでくれて。
イベントで成果を披露する砂原さんと平良小学校の子どもたち。
子どもたちもヒーローになったみたいで、うれしかったでしょうね。
砂原:そう! もうそれから学校中がけん玉ブームになってね。そのうち私個人に、他の小学校からけん玉を教えてほしいと依頼がくるようになって。それであちこち行ったんだけど、その場は盛り上がって楽しい!となっても、それきりで終わっちゃうこともあったので、それはもったいないなと思って。それで串戸市民センターに「廿日市けん玉クラブ」をつくり、大野に「大野けん玉クラブ」をつくって、けん玉が地域に定着するようにしたんですよ。
成果はありましたか?
砂原:上手な子がすごく増えましてね。そうすると今度は競う場がほしいなということになって、「廿日市けん玉道選手権大会」をやろうということになりました。第1回目は私個人の主宰で、景品なんかも持ち出しで用意したりしたんですが、今ははつかいち観光協会が主催する「はつかいち桜まつり」の中の1つのコンテンツとして続いていますよ。

教職を辞めてけん玉の道へ

そうやってどんどんと、けん玉の活動の幅が広がっていたんですね! 砂原さんは、そういう活動を小学校の先生を続けながらされていたわけですか?
砂原:そうなんですよ。土・日を使ってけん玉のことをやっとったんですが、その頃、学校の方も色々体制が変わってめちゃくちゃ忙しくなって、いっぱいいっぱいになってね。じゃあ、どっちか選ぼうと。それでけん玉を選んだんですよね。53歳のときでした。
教職を辞めてけん玉を選ぶ…、すごい決断ですよね。忙しくてどちらかを選ばざるを得なかったという以外にも、理由とかきっかけとかってありましたか?
砂原:今田先生との出会いが大きかったですね。
今田先生とは、どんな方なんですか?
砂原:当時、日本けん玉協会広島総支部長をされていた方で、けん玉伝道師として日本全国の保育園、小学校やモンゴルなど海外でも活動されていて、私も今田先生についてモンゴルに行ったりしましてね。教職を辞めてまでけん玉を普及する活動をしようと思ったのは、やはりこの今田先生と出会ったことが一番大きい理由でしたね。
2004年、今田先生とモンゴル-日本子どもけん玉交流会に参加した。
モンゴルまで! すごい方がいらっしゃるんですね。砂原さんもモンゴルに行かれてどうだったですか? 日本とモンゴルの子どもではやっぱり反応が違いましたか?
砂原:基本的にはどの国の子どもも夢中になってやってくれますよ。強いていえば、モンゴルの子どもたちはとても積極的で、「できたー!」っていうアピールがすごい。それに比べて日本の子どもたちはシャイかなあ。
「ユニコーン」という技。これを見たみんなが笑顔になる。

けん玉で笑顔をつくりたい

教職を辞められてからは、廿日市市内にけん玉専門店をオープンしたり、けん玉中心の生活になっていくわけですよね。大変なこともありましたか?
砂原:まあ、一番大変だったといえばやっぱりお金のことですね。教職をやっていたときは毎月お給料を貰っていたのが、ぷっつりなくなるわけですから。けん玉の活動でお金を稼ぐというのはなかなかできなくて。何をやるにしてもお金が必要なので、その有り難みをしみじみ感じましたね(笑)。
ショップもされていましたよね?
砂原:2014年に長年の夢だった、けん玉専門店『kendama shop & salon 夢。』をオープンしたけど、私は商売には向いてなくて、2016年に閉じました。今は廿日市市で唯一、けん玉を生産し、「夢元無双/ MUGEN MUSOU」で世界のプレイヤーともつながっているイワタ木工さんに場所を継いでもらって、イワタ木工さんのけん玉ショップになっています。若い方が引き受けてくれて、ありがたいことです。
いろいろ大変なことがあっても、やっぱりけん玉という道を進み続け、今に至っているわけですが、そのモチベーションというか、けん玉の魅力って何なんでしょう?
砂原:「いつでも、どこでも、誰でも」できるところですね。お皿に乗っただけでも嬉しいでしょ。その喜びも、みんながあっと驚くようなすごい技ができたという喜びも同じなんです。
たしかにすごい技ができなくても大皿に球が乗っただけで、「やったー!」っていう気持ちになります。
砂原:子どもたちに、自分ができることで他の人が喜んでくれるという喜びを味わってほしい、そして自分に自信を持って生きてもらいたいという想いですかね。もともと「子どもたちの夢を育てたい、子どもたちが頑張るための力になりたい」と思って教員になったわけですから、根っこの部分は同じですね。
現在も幼稚園や小学校で楽しいけん玉遊びを伝授中。
今はけん玉の普及活動として、幼稚園や小学校でけん玉教室を精力的に行われているそうですが、年間にどれくらいの回数をされているのですか?
砂原:去年は1年で350件くらいやりましたね。
すごい! ほぼ1日1件はやってる感じですね! それは広島県内だけでの数字ですか?
砂原:ほとんどが県内だけども、山口県や福岡県にも行きましたね。昔はもっと遠くにも行けたけど、けん玉人口も増えたから最近は近隣がほとんどですよ。
廿日市市のけん玉公園で、けん玉ボーイズと。
そういえば地元出身のお笑いコンビと一緒にけん玉教室をされたりもするそうですが?
砂原:そうそう、廿日市出身のお笑いコンビ「けん玉ボーイズ」と一緒にイベントに出演したり、小学校でけん玉教室をやったりしとるんですよ。彼らも最初はけん玉がほとんどできなくて、毎週1回、このけん玉公園で私が指導をしたんです。その様子をフェイスブックで紹介していたら、お母さんたちが集まってくるようになって「けん玉かあちゃんず」というのもできたりしてね。
取材中、偶然、砂原さんがけん玉指導した近隣の「えんがわサロン」の主宰者と再会する場面も
けん玉1つでほんと世界がどんどん広がっていくんですね。
砂原:ですね。けん玉をやってないと出会えなかったような人とたくさん出会うことができましたね。

編集部みんなでけん玉にチャレンジ!

もしよかったら、編集部のメンバーにもけん玉をレクチャーしていただけませんか?
砂原:いいですよ! はい、じゃあみんなで大皿~!
「あ、乗った!」うれしそうな副編集長。
「まぐれですよ」とみんなにからかわれて苦笑い。

伝えたいのは楽しいけん玉遊び

ありがとうございます。副編集長のミラクルもあって大盛り上がりでしたね(笑)。このように、地元をはじめ世界にも飛び出してけん玉を広める活動をしてこられた砂原さんですが、今後の活動についてはどんなことを考えていらっしゃいますか?
砂原:私がやりたいけん玉は、競技というよりは「楽しいけん玉遊び」なんですね。けん玉は100歳の人でもできる遊びですからね。スポーツが苦手な子、けん玉が苦手な子でも楽しめるようなこと(技)を考えて、楽しいけん玉遊びをやりたいと思っています。
子どもが喜ぶユニークな技を次々と見せてくれる砂原さん。
「カメカメハー! これをやったら子どもたちが喜ぶんですよ」。
(ノンストップで続く技を見て)始めると止まらなくなっちゃうんですね(笑)。まだまだいろんな技を見せていただきたいところですが、そろそろお時間なので最後に、砂原さんの夢をお聞かせいただけますか?
砂原:ああ、夢中になっちゃってごめんなさい(笑)。夢、そうですね、中国の公園なんかで人が集まって太極拳をやっているでしょ。そんな感じで、子どもも、お父さんお母さんも、おじいちゃんおばあちゃんもみんなが集まってけん玉をやっている、そういう光景が廿日市のどこにいっても見られるようになるといいなと思いますね。それが今、叶ったらいいなあと思う夢かな。

けん玉発祥の地といわれる廿日市市にあるけん玉公園で、砂原さんとユニークなけん玉遊びに興じた編集部。すごい技ができなくてもお皿に乗るだけで「やった!」という気持ちになる、そのことが本当に楽しくて「けん玉はみんなを笑顔にする」という砂原さんの言葉をまさに実感した1日でした。

けん玉名人

砂原 宏幸さん

小学校教諭時代、児童に教える機会があったことをきっかけに自らもけん玉の魅力にハマり、53歳のときに教職を辞めてけん玉の世界へ。保育現場や小学校、イベントなどで楽しいけん玉遊びを伝えている。