広島に暮らす人なら、テレビから流れてくる情報番組のテーマ曲に聴きなじみがあるはず。その曲を手掛けたのは、地元広島を拠点に音楽活動を行うインストゥルメンタルユニット・大瀬戸千嶋。大瀬戸嵩さんのサックスに千嶋里志さんのエレクトーンという他にはないスタイルを武器に、活躍の舞台は広島から世界にまで広がっています。広島市安佐北区の小さなレストランから始まったというユニットの歩みとともに、広島発の音楽を大切に活動する2人に話を聞きました。
教育実習で久々の再会
お2人とも広島がご出身で、音楽高校卒業後はそれぞれ関東の音楽大学で学んだとのことですが、ユニット結成はどんなきっかけからだったのでしょうか?
大瀬戸:高校時代はまったく縁がなかったです。大学生のとき母校の高校で教育実習をして、そこで久々に会ったんですよ。実習の最後、生徒に向けて演奏をするときに、千嶋に伴奏をしてもらいました。
千嶋:それがきっかけで話す機会が増えたんよね。当時、大瀬戸の母親が安佐北区で音楽の生演奏をしているレストランをしていて、ピアノを弾ける人を探しているという話からアルバイトをさせてもらったり。
大瀬戸:僕は大学卒業後も1年は関東にいたから、たまに広島に帰って来たときにそこで一緒に演奏していました。
まさか教育実習がきっかけとは思いませんでした。その後、すぐ結成という流れになったんですか?
千嶋:僕は音楽の先生になりたかったので、就職は広島ですると家族に理解してもらって関東の大学へ進学しました。なので、卒業後は広島で非常勤講師をしながら演奏活動をしていましたね。
大瀬戸:卒業後1年は関東でオーディションを受けながら演奏していたけど、次第にサックスを吹くことに疲れてしまったんです。それで、人生1回立て直そうという気持ちで広島に帰ってきました。店の近所のおばちゃんたちに「せっかくなら聴かせてよ」と声をかけてもらい、千嶋の伴奏で演奏しました。それまでは採点される環境の中で吹いていたから、久しぶりのお客さんからの拍手にすごく感動して。それでもう少し続けようと、2人で演奏をしていたわけです。
千嶋:そうしていると、今度は近所のおばちゃんたちに「ユニットでやったらいいじゃん」と言ってもらえて。それで「大瀬戸千嶋」という名前でユニットを組んだんですよ。広島には、僕らの育ての母がいっぱいいます。
覚悟が決まったドイツ公演
個人的には、その当時の広島で音楽活動というとバンドが多かった印象があります。その中で「サックス&エレクトーン」というスタイルでやっていくことへの期待や不安はありませんでしたか?
大瀬戸:お互いに色々と模索していた中で始めたので、正直なところ最初から「売れようぜ!」みたいな勢いはなかったんですよ。実は、プロとしての意識を持ったのもずっと後のことで。
千嶋:当時広島の音楽としては、クラシック以外でいうと一般的には歌のある音楽があふれているという感覚がありました。ただ、僕らはその頃サックスとエレクトーンしかできない状態で、選択肢がなかった。サックスがメロディーやフロントを、エレクトーンは相対的な音を鳴らす役割を。自分たちができることを形にした感じですね。
大瀬戸:その後自分たちで始めた演奏会に、ドイツで活動されていたトロンボーン奏者の堀江龍太郎さんに出ていただいたことをきっかけに、「ドイツに一緒に行こう、人生観変わるから」ってドイツに連れていってもらったんですよ。
え、いきなり海外! それまでに海外で演奏したことはあったんですか?
千嶋:それが、ないんです。留学とかもしたことなくて。サックスは持っていけてもエレクトーンは持っていけないから、僕が現地でパイプオルガンを弾けるかどうかが問題で。
千嶋:弾いたことなかったんですよ。でもそのときチャンスだと思ったんですよね。「鍵盤だしエレクトーンと一緒ですよね。弾けます」って答えました(笑)。
大瀬戸:しかもドイツの教会に着いてみると、見たこともないような数百年前からあるパイプオルガンが…。
そんな歴史のあるパイプオルガン、音楽家人生の中でもなかなか弾く機会ないですよね…。
千嶋:しかも、現地ではオルガニストが弾くものでピアニストは基本触らないらしいんです。僕はオルガンでもエレクトリックオルガンだけど、実際に弾いてみて自分の中で何かが覚醒した感覚になりました。
大瀬戸:大きな教会で千嶋が弾くパイプオルガンの音色が響いたとき、感動を超えて震えがきましたね。それで、日本へ帰るために空港へ向かう車の中で、2人でプロとして広島で活動していこうって誓ったんです。
大瀬戸:広島に帰ってからはバイトとか他の仕事を全部辞めて。今でもふと、そのパイプオルガンの音色がぶわっと蘇ってきます。
2人の音楽を磨くために
大瀬戸:自分たちだけのスタイルを確立したいと思って、千嶋はピアノも弾けるけどエレクトーンに絞り、僕はアルトも吹けるけどプロとしては珍しいソプラノサックスに絞りました。
千嶋:当時エレクトーンは持ち運びできるタイプがなくて、重すぎて大変だったんですよ。でもそれがないと僕らのパフォーマンスはできないからこだわって、イベント主催の方にも説明して。最終的には理解していただけるんですけど、めちゃくちゃ迷惑がられました…。
確かに、エレクトーンは相当重いですもんね(苦笑)。大瀬戸千嶋さんといえば、広島での演奏公演はもちろん、テレビ番組のテーマ曲だったり、フラワーフェスティバルへの出演なんかの印象も強いです。
大瀬戸:本当に、ローカルのたたき上げのような感じよね。オリジナル曲をつくって、少しずつ広島の人に知ってもらって、ウェブサイトやチラシをつくるのも自分たちでやってたし。
千嶋:広島の皆さんがどんどん縁をつないでくださって、結成して翌年にはフラワーフェスティバルに初出演できるとか、本当に感謝しかないです。
自分たちにとってプラスになった、転機になった活動はどんなものですか?
大瀬戸:演奏面は、昔も今も僕らの音楽を聴いて喜んでもらえたらいいなと思っているので変わりはありません。それよりは、社会人経験がなかったから、それを勉強するためと音楽活動をしっかりやっていくために会社を設立したことですね。
千嶋:僕の場合は制作面。プロのアーティストとしてCDや音源をつくるとなると、デジタル化への対応や制作面のスキルを高めていかないといけないし、そうしないと大瀬戸千嶋としてのステップアップもない。東京の制作チームとともに試行錯誤しながら楽曲制作できたことが自分にとっては大きいです。
2人の音楽を磨くために必要なことであり、もちろんそれがパフォーマンスとか演奏とかにもつながっていきますよね。
広島の未来を担う子どもたちに届ける音楽
先ほど千嶋さんから音楽の先生になりたかったという話を伺いましたが、県内の小中学校で行う「音楽人権教室」講師としての活動で、より密接に広島の各地域と関わる機会もあったと思います。
大瀬戸:人権教室でも、ライブと同じように飾らずにやっています。ドアを開けて入った瞬間から「イエーイ!」ってテンション高くやっていますし(笑)、みんなに楽しんでもらうのが一番かなぁと思って。僕らの音楽で何かを変えたいっていう気持ちは全然ないんです。
千嶋:日本の小中学校の教育だと「静かに聴きましょう」という前提があったりしますけど、僕らがする人権教室は芸術鑑賞ではないので、手拍子したり手を上げたり、自由に楽しむことを認めるのが大切だと感じています。そこで、音楽でもサッカーでもなんでもいいから何かをやり切る姿を見てもらえたらいいかなって。
大瀬戸:授業ではなく、単なる自分たちのワンマンショーみたいになっているかも(笑)。
2人の熱量が、児童や生徒のみんなにバンバン届いてそうですね。
千嶋:この前、中学生の頃に僕らの人権教室を見てくれた男の子が、高校3年生になって受験を控えている時期に「大瀬戸千嶋をあのとき初めて知って、それからずっと曲を聴いて、受験を頑張れた」と教えてくれたんですよ。子どもたちの成長も感じられてうれしかったですね。
大瀬戸:人権教室は何年も続けさせてもらっています。広島の未来をつくっていく子たちからそんなメッセージをもらうと、本当に感慨深いです。
広島でつくった音楽を聴いてほしい
千嶋:2020年はコロナ禍で皆さんに直接音楽を届けるのが難しかったので、まずは広島でライブをしたいですね。配信はもちろん良い点もあるけど、その時期だからという一つの選択肢のような気もしていて。
大瀬戸:これまで広島や県外、海外でもツアーをさせてもらいました。移動が自由にできるようになったら、広島発で初めての国も含めて国内外をツアーでめぐりたいです。広島からでも情熱を持って一生懸命やれば音楽活動できると知ってもらいたいし、広島でつくった音楽を聴いてほしい。あと、映画音楽の制作にもいつかチャレンジしたいです。
千嶋:いろんな経験を糧に、感じたことをエネルギーにして僕らの音楽を発信していきたい。結成して約15年、大瀬戸千嶋を長く続けてきて広島に多くのことを教えてもらいました。これからも楽しみにされるアーティストとして音楽活動を続けていきたいです。
音楽を愛し、まっすぐに向き合ってきた大瀬戸千嶋の2人。ステージ上では何より本人たちが一番楽しんでいるようにも見え、その2人の姿に会場にいるお客さんも応え、一緒の空間で音を楽しむことの喜びを共有します。広島だからこそつくれる楽曲、生み出せる音の世界がある。サックスとエレクトーンが奏でる唯一無二のサウンドを、これからも広島発で全国へ、世界へと届けていきます。