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島田水産 島田俊介さん|「牡蠣は人生」広島牡蠣の魅力を発信し続ける牡蠣生産者の思い

廿日市市宮島口西にある創業300年以上の伝統を誇る牡蠣養殖の老舗、島田水産。現在は生産・加工だけでなく、新鮮な牡蠣をその場で味わえる『かき小屋』を経営し、日本のみならず海外にも広島牡蠣の魅力を発信しています。牡蠣生産者の家に生まれ育ち、家業を継いだ会長の島田俊介さんに、牡蠣への思いを尋ねました。

家業は創業から300年以上続く牡蠣生産

17歳で島田水産を継いだとお聞きしたのですが、きっかけは何だったのでしょうか?

島田:17歳のとき、親に「家の仕事を手伝え」と言われたんですよ。小さい頃から親の背中を見ていたので、いずれは家業を継ぐのかなとは思ってました。牡蠣を運んだりする作業を手伝っていたので、自分の中では自然と引き継いだという感じです。

17歳だったら高校生ですよね。学校には行かれていたんですか?

島田:高校を3か月ぐらいで卒業しました(笑)。そのあと約1年間は別の会社に勤めていたんです。いろいろやんちゃしてましたね(笑)。

300年以上の伝統を受け継いでいるとお聞きしたのですが?

島田:そうなんです。そもそも広島牡蠣は、広島市西区草津で生まれた「かき船」が始まりとされていて、江戸時代に草津で牡蠣を養殖して冬には船に乗せて大阪へ販売に行ってたんです。ですが戦後、大阪の河川敷工事でかき船が撤去されたんです。

そうなんですね。広島牡蠣の歴史を初めて知りました。

島田:その後京都に移り、牡蠣生産者が営業する草津「かき船」が一軒だけ残ったんです。そのかき船を伯父が営業して江戸時代から続く300年以上の歴史を守っていましたが、残念ながらかき船は廃業してしまって。

京都で営業していた「かき船」

いつまでかき船は営業されていたんですか。

島田:今から20年くらい前まで営業していたんですよ。ですが、急に伯父が体調を悪くし廃業したんです。そのとき、伯父から「いつか復活してほしい」とかき船の看板などが広島に送られてきたんです。

伯父さんから託された、江戸後期からかき船に掲げられてきた伝統ある看板。

そうなんですね。

島田:昔は、かき船を持っているところが牡蠣屋さんと言われていたんですよ。うちは明治時代に養殖の場を草津から宮島へと移して、そこで自家養殖しながらかき船で販売してたんです。そんな歴史があるから、「途切らせるわけにはいかない」という伯父の思いもあり私に看板を託したんだと思いますよ。

看板を託されたとき、どんな気持ちでしたか?

島田:正直「出来るか!」と思いました(笑)。だから今でも名前は使っていないんです。あくまでもここは「かき小屋」だから、伝統ある「かき船」と比べて格が違うと言われますから。

引き継いだとき、重圧はなかったのですか?

島田:重圧はなかったですね。かき船が本業ではなく、牡蠣の養殖生産がメインなので。でも今は「いつかは復活していかないといけない」と思ってます。

現在は牡蠣の生産から出荷まで一貫して自社でされているんですね。

島田:昔は市場に卸していたんですけど、バブル時期から牡蠣の流通が変わり相場も落ちてきて、このままでは将来がないと感じたんです。2001年に組合でブランド牡蠣『安芸の一粒』をつくったときに出荷まで自分たちでするようになったんです。

ブランド牡蠣『安芸の一粒』丸みを帯びた殻の形が特徴

ブランド牡蠣ですか。完成まで期間がかかったのではないですか?

島田:製品として出荷できるまで5年かかりました。自分たちが人工で種を採取して、卵からずっと育てるんですよ。生産者同士が夏場に夕方から毎日集まって、何回も失敗を繰り返してかなり大変でした。やっと成功した最初の1シーズンは10~20個しかとれなかったんです。

うまく育たなかったのですか?

島田:人工採卵や普段とは違う養殖方法なので、回数を重ねて経験を積まないと多く生産ができなかったんです。水温とか餌の量とか。カキの餌はコストがかかり毎回は買えないので、自分たちでつくっていたんです。色々何回も試してやっとこの量まで増やすことができたんですよ。

生産者が開発するってすごいですね。

島田:当時は日本で初めてということもあり、広島県も含め色々な県から研修に来られました。今ではその技法が全国に広がって、牡蠣を生産している他県でもブランド牡蠣をつくっているんですよ。

広島が発祥ってうれしいですね。

牡蠣の水揚げの様子
水揚げした牡蠣を一粒づつ丁寧に加工します

かき小屋の誕生はお客様の声から

かき小屋を始めるきっかけは何だったんですか?

島田:以前、九州の漁協の方が「小屋を建ててお客様に焼いて食べてもらってる」と言っていたんです。私たちもかき祭りを行うとお客様から「食べるところはないの?」という声も多くなってきたんで、以前聞いた話を思い出してやってみようかと始めたのがきっかけだったんですよ。

そうだったんですか。生産場所のすぐ近くで食べてもらうって珍しいのではないですか?

島田:当時はまだどこもやってなかったですね。最初は1つのテーブルで屋根もなく、雨が降ったら傘をさして食べてもらってました(笑)。 徐々に口コミで人が増えてちょっとずつ屋根もつけたり、寒いから壁もつけたりと増やしていったんです。始めた頃は母親にも怒られたんですよ(笑)。

今ではゆっくりと牡蠣が味わえる店内席と桟橋席があります。

えっ、怒られたんですか?

島田:テーブルは1つしかないし、当時は生産者が安く牡蠣を食べさせる場所がなかったんで、「初めから食べ放題にしてバカじゃないん、お客様も来んのに」って(笑)。 でも口コミで徐々にお客様が増えてくれてうれしかったですね。

うれしいですよね。最初から色々な料理も提供されていたんですか?

島田:最初は焼き牡蠣しかなく、牡蠣めしや牡蠣フライなどはなかったんですよ。「他にない?」と聞かれたら、近くのコンビニを紹介してました(笑)。そのコンビニがなくなって、何か料理を増やそうと考えたときに昔かき船で出していた料理を伯母さんに教えてもらって、本格的な料理を提供する現在の「かき小屋」をスタートしたんですよ。

焼き牡蠣・牡蠣飯・牡蠣フライ・牡蠣の天ぷらをいただきました。

新鮮な牡蠣を色々な料理で食べることができて、良いですね。

島田:お客様から牡蠣を食べたいという声を聞いて「かき小屋」をつくり、「牡蠣の水揚げを見たい」という声があって水揚げ体験で見てもらったり。実は宮島まで送迎する観光事業もやっているんですよ(笑)。

本当にさまざまなことをされてらっしゃるんですね!

島田:お客様に言われたらなんでもやってみようかと思ってます。儲けじゃなく生産者としてお客様に牡蠣を知ってもらうのが大事なんですよね。食べてもらうことでいろいろな感想が聞けるので。良い意見ばかりじゃないけど生産者として励みになるし、それでうまい牡蠣をつくろうと改めて思えるんですよ。

お客様の声を聞くって大事ですよね。

島田:子どもは見たり体験したことって覚えててくれるから、またここに帰ってきてくれるんです。次の世代にもつなげていかないといけないんで、食育や修学旅行の受け入れなどにも力をいれています。これは水揚げ体験やかき小屋をしないと分からなかったことなんですよ。だから多くの人に見てもらって、広島牡蠣のファンづくりをしてるんです。

水揚げ体験できる場所まで船で連れて行ってもらいました。
宮島に近く、フェリーからも多くのかき筏が浮かんでいるのが見えます。
1本の垂下連の長さは9〜10メートル。1本で300〜500個のカキが獲れます。
養殖して2年のカキ。現在、私たちが食べているカキは3年ものが主流だそうです。
筏の下の牡蠣の様子

長い歴史を持つ島田水産さんがされているさまざまな取り組みだからこそ、多くのファンがいるのではないですか?

島田:おかげさまで日本だけでなく海外の常連さんもいるんですよ。今はコロナ禍で海外からは来られないけど、遠い国ではチリから毎年来られたり、香港や台湾からも月に1回は来られたりしてたんです。今でも連絡をくれて「コロナが終わったら行くね」と言ってくれてます。

早くお客様に来てほしいですね。

島田:そうですね。いつコロナが収束するのか分からないけど、いつ来られても良いように「うまい牡蠣を用意しとかんといけん」と思ってます。

牡蠣で世界とつながっているってすごいですね。今までは日本に広島牡蠣を広げて、今は世界に広げてるんですね。英語は話せるんですか?

島田:私は話せないんですよ。せっかく日本に来て英語で話しても外国の方も面白くないと思うんです(笑)。「OK!OK!」って言ったら結構伝わっていますよ(笑)。宮島を遊覧したときは身振り手振り説明すると、相手も「分かった」って返してくれるんです。どうにもならなかったら、最近はスマホで通訳してくれるから大丈夫です(笑)。

これまでお仕事されて多くの苦労があったと思いますが、1番の苦労は何ですか?

島田:ずっと苦労の連続ですよ。その中でも自然を相手に仕事してるから1番は台風ですね。あとはノロウイルスです。ブランド牡蠣ができたときオイスターバーも流行していたので関東に売り込みに行ったんですが、ちょうどノロウイルスが騒がれてブランド牡蠣の販売が一時落ちたんですよ。

自然やウイルスには勝てないですよね。

島田:今コロナ禍で、衛生面は誰もが気を遣っているので、ノロウイルスが減って安全になってきているんです。海もきれいになってきているし、ウイルスを不活性化する装置ももうすぐ完成する予定です。

装置をつくってるのですか?

島田:知人と一緒に研究して機械をつくってもらってるんです。完成したら、生食もスタートしたいと思ってます。

安心して牡蠣が食べられますね。仕事してて良かったことや、嬉しかったことは何ですか?

島田:やっぱりかき小屋からお客様に笑顔で帰っていただけることが一番ですね。それが生産者として励みになります。生産者が思う「いいもの」と、お客様の思う「いいもの」は絶対違うんですよ。見た目の良さだけでなくて、食べておいしいものなど新しい発見が大切だとかき小屋を営業して分かったし、それを他の生産者に伝えるのも自分の仕事だと思うんです。

お客様の顔が見えるから良いですよね。ところで生産者としての島田さんにとって、牡蠣とは何ですか?

島田:17歳から40年以上働いて普段の生活の一部だから・・・『人生』ですよね。子どもの頃から手伝ったりここの浜辺で遊んだりしてましたからね。だからこそ「広島の牡蠣はうまいんだ」と広く伝えていかないといけないですよね。

島田さん自慢の牡蠣

広島牡蠣の後継者を育てる

自然相手の仕事なので日々お忙しいと思いますが、島田さんのリフレッシュ方法はなんですか?

島田:私はドライブや車中泊が好きなんです。牡蠣の生産は4月までなので、生産がない6月から9月ぐらいまでの間は、毎年かき小屋を社員に任せて自由気ままにどこか遠くへ行くんです。一番遠い所は青森の大間まで軽自動車に乗って往復10日ぐらいかけて、1人で行ってきました。

えっ、そんな遠くまで。事前に調べていくんですか?

島田:行く場所を決めて、あとは適当ですよ(笑)。いろいろな場所に行くと、観光客の気持ちにもなって多くの情報が入るし、いろいろアイデアも浮かぶので仕事にも生かされるんですよね。

だからお客様に楽しんでもらえているんですね。

島田さん愛車の軽自動車。かなり走行距離がのびてます。

島田さんが会長になられたのはいつからなんですか?

島田:2020年の10月に息子へ社長を任せたんです。自分が社長になったのが遅かったので、早く譲って若い頃からいろんな人と話をしたり多くの経験をさせたいと思ったんです。まだ自分も現役で元気だから、後ろで支えてあげたいですね。広島には後継ぎの事で悩んでいる他のかき生産者もいるんですよ。

他の生産者さんも後継者問題ってあるんですか?

島田:ありますよ。体力的にきつく、生ものを扱う仕事だから休みもなくて。女性との出会いも少ない業界なんで後を継ぐ人も少ないんですよ。これからの広島牡蠣生産者は10年先、今の3分の1になるんじゃないかと言われてるんです。自分の若いときと比べて今では生産者が半分以下になってて。これからかきの水揚げ量もどんどん減ってくるんじゃないかと心配してます。

自社だけでなく、広島牡蠣業界全体を広く考えていらっしゃるんですね。

島田:もっとこの業界が発展するように考えていかないと、と思ってます。休みもなく働きすぎている業界だから、若い人が続けていけるように陰ながら支えていきたいですね。後継者問題も含め労働改善をしていって、これから先もより良く続けていけるよう変えていかないとと考えてます。

17歳という若さで家業を継ぎ、自然を相手に多くの苦労をしながらも、広島牡蠣の魅力を伝えるためさまざまなことに取り組んでいる島田さん。お客様の声を大事にし、「楽しんでもらいたい」という言葉に島田さんの心意気を感じました。300年以上の伝統ある広島牡蠣を守り、これまで培ってきた知識や経験を後継者へ引き継ぎながら、広島牡蠣の魅力を多くの方へ発信していきます。

島田水産株式会社 会長

島田 俊介さん

創業300年以上の伝統を誇る広島牡蠣生産の老舗、島田水産の会長。牡蠣の生産だけでなく「かき小屋」や水揚げ体験など観光事業にも力をいれ、広島牡蠣の魅力発信を行っている。

島田水産株式会社

広島県廿日市市宮島口西1-2-6

TEL.0829-56-2004

アクセス
広島CLiP新聞編集部(CLiP HIROSHIMA)より車で約40分