27歳の時にバイクの事故で左腕に障がいを負った西岡利拡選手。2020東京パラリンピックでは、パラボート日本代表に選ばれ、現在も次のパラリンピックに向けてトレーニングを続けています。そんな西岡選手のボートとの出合いやパラリンピック出場で感じた思い、障がいとの向き合い方についてお聞きしました。
バイクからボートの世界へ
西岡:子供の頃から体を動かすことが好きで、大学時代にはまっていたのがバイクでした。公道を走るうちにレースにも出たくなり、日本国内のレースに出場するためのライセンスを取ったんです。しかし、ほどなくして一般道で事故をしてしまいました。その影響で左腕の肘から下にまひが残り、バイクには乗れなくなりました。
西岡:レース復帰を目標に手術やリハビリを頑張っていたのですが、3回目の手術で医師から「もう動くことは無い」と言われた時が本当につらかったです。そんな時に出合ったのがボートでした。
西岡:弟が高校時代ボート部で、その仲間の一人が障がい者ボートのメンバーを探していたんです。それで弟からやってみないかと誘われ始めました。仕事をしながら週に3、4回トレーニングを行い、しんどい日もありましたが2008年北京パラリンピックからボートが正式種目に入ることが決まり、それを目標に頑張ろうと思ったんです。
西岡:そうですね。当時は障がい者ボートはマイナーだったのでハードルが低いのではと思ったんです。障がいがあるからこそ目指せるのだから挑戦してみようと思いました。
世界の壁を超えるために
西岡:いえ、世界の選手たちにはまったく歯が立ちませんでした。その後出場した2010年アジアパラ競技大会で4カ国中4位という厳しい結果を受け、自分以外の選手がボートを離れてしまったんです。それからしばらくは一人でひたすらトレーニングをしていました。
西岡:当時39歳だったので、続けるか辞めるか悩みました。そんな時期に、全日本選手権で47歳の選手が率いるボートチームが優勝したというニュースを目にしたんです。それを見て「年齢は関係ない」と鼓舞されたように感じました。続けていれば、道は拓ける。パラリンピックに出場するまではボートを辞めないと決意しました。
西岡:そうですね。2015年に琵琶湖ローイングCLUBという障がい者ボートチームに声をかけていただき、月に一度琵琶湖での練習が始まりました。再び仲間ができて本当にうれしかったです。2021年東京パラリンピック大会の推薦枠で日本が選ばれ、念願の出場権を獲得でき、信じられない気持ちでいっぱいでした。
西岡:合宿は全て中止となりました。そこで始めたのがリモートでのローイングエルゴメーターのトレーニングです。エルゴメーターの先にスマホをつけて、みんなで一緒にトレーニングしました。コロナが少し落ち着いてからは、長野での強化合宿がスタートし、久しぶりにみんなと顔を合わせて練習できるというのはうれしかったですね!
東京パラリンピックのテーマは「存在感」
西岡:チームとして何を目指すか、そのために個人は何を頑張るかを話し合い、「スタートからの存在感を示そう」と決めました。スタートに磨きをかけて、前半500mは食らいついてやろうと。全員で艇の感覚を感じとり、オールの音やシートのスライドする音を合わせることでスタートの精度を高めていきました。
西岡:結果は12位。悔しい結果でした。しかし、スタートは他の国の選手に食らいついていけたので存在感は示せたかなと思います。チームですぐ話し合いをし、「2024年のパラリンピックにも出よう!」と決めました。
西岡選手の障がいとの向き合い方について教えてください。
西岡:障がいがあることで、できないこともありますができることも増えました。パラリンピックへの出場がまさにそうです。競技を始めて14年で出場がかなったので、今何か目指している人は、続けていけば良いことがあると思います。あきらめないでください。障がいがあるからといって自分の想いにふたをしないでほしいなと思っています。
「続けることの大切さ」を強く語ってくださった西岡選手。たった一人での苦しいトレーニングも乗り越え、パラリンピック出場の夢をかなえた姿に説得力を感じました。今年で50歳を迎え、次のパラリンピックでは53歳となる西岡選手が、過去最年長でパラリンピックに出場している姿を見る日が今から楽しみです。